築城の天才!護佐丸の足跡を辿る世界遺産の歩き方

14世紀から15世紀の初頭ごろ、沖縄には南山(なんざん)、中山(ちゅうざん)、北山(ほくざん)の3つの王国が存在して覇権を争っていました。この時期を三山(さんざん)時代と呼んでいます。
「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として登録された沖縄の世界遺産の中で、特に沖縄の中部と北部にある城跡はこの三山時代のものになります。グスクとは沖縄の言葉で「城」を意味します。
観光客の皆さんにとっての世界遺産は、首里城と斎場御嶽、それ他の城跡ぐらいの認識しかないかもしれませんが、詳しく知っていくとそれぞれの城跡には結構アツいドラマがあるのですよ!
今回はそんな世界遺産となった城跡の中から、築城の天才と評され、統一琉球王国の成立に大きく貢献した武将の護佐丸(ごさまる)にスコープを当てて城跡群を紹介していきたいと思います。
北山討伐の舞台となった今帰仁城跡

城跡群の中で最北端に位置する今帰仁城跡は、もともとは護佐丸の曾祖父である仲昔今帰仁(なかむかしなきじん)が納めていましたが、1322年に従兄弟にあたる怕尼芝(はにじ)によって滅ぼされてしまった護佐丸にとって因縁深いお城です。
それから約100年経った1416年、護佐丸は三山統一を目指す尚巴志(しょうはし)とともに三代目の攀安知(はんあんち)王)が納めていた北山王国に攻め入りました。攀安知の軍が城外で交戦中、尚巴志側のスパイが城内に火を放ち、攀安知王は今帰仁城で自刃、北山王国を滅ぼした護佐丸は一族の悲願を達成したのでした。
ちなみに築城のため人をさらうなど強硬派として恐れられていた護佐丸ですが、北山討伐で敗れた攀安知の一族は南山に逃してかくまったという逸話も残っており、慈悲深い一面も垣間見ることができます。
北山監視のためにスピード築城された座喜味城

北山を攻略して今帰仁城を納めていた護佐丸は、国王に対抗する勢力を監視する目的で、中山の影響下にある読谷の座喜味に城を建てることを尚巴志より命じられます。
1416年、北山を討伐のちに座喜味城の建設が始まりました。西海岸の海域や周辺の離島、本部半島まで広く見渡すことが出来る高台は、築城の立地として最適でしたが、地盤は赤土で軟弱でした。
まず護佐丸は一族の旧居城だった山田城(恩納村)を崩して石材を運びました。作業者は奄美諸島や慶良間諸島などから強制的に連れ去ったとされており、その強権っぷりに離島民は恐れおののいたとも言われています。

こうして北山討伐からわずか6年後の1422年に座喜味城は完成をむかえ、護佐丸も居城を移します。軟弱な地盤にもかかわらず、強度の高い石積み、なめらかなカーブを描く石垣、くさび石を用いた強度の高いアーチ門など堅牢な防御力、高い技術力を兼ね備えた美しい城として現代でも高い評価を受けています。
座喜味城に18年間居城した護佐丸は、中国や東南アジアとの貿易によって琉球王府の経済を支えたそうです。王への忠誠心はこんなところからもうかがい知ることができますね。
さらに数百年時を経て、第二次世界大戦時の日本軍が高射砲を設置したり、戦後になるとアメリカ軍がレーダー施設を置くなど、時代も国も越えて利用されたという事実は、座喜味城が戦略的に優れていたことの証でしょう。
悪王を倒した阿麻和利が勝連城の城主へ!

座喜味城築城と同じころ、勝連城(うるま市)では酒に溺れ、悪政をしいていた城主の茂知附(もちづき)が、家臣であった阿麻和利(あまわり)に討たれ、そのまま阿麻和利は10代目の勝連城城主となりました。
このころ、琉球王朝のある首里城では6代目の王座を争う内乱(1454年)があり、この争いで首里城は1度目の焼失をしてしまいます。6代目の琉球国王となった尚泰久(しょうたいきゅう)は、護佐丸の娘を正室に、尚泰久の娘である百度踏揚(ももとふみあがり)は阿麻和利の妻に据えるなど、有力な豪族の威光を後ろ盾を得ることに成功。内乱で失墜した王権の復興を図ろうとしていました。
勝連城では、2013年の遺構調査でローマ帝国のコインが4点、オスマン帝国の貨幣が1点が確認されました。日本国内でローマやオスマン帝国の貨幣が発見されたのは初めてとのことで、阿麻和利が海外貿易を盛んに行っていたことの裏付けでもあります。
王家への忠義心をみせた護佐丸最期の地!中城城

尚巴志に中城の領地を与えられた護佐丸は、1430年に改築を始めて1440年には完成。第2代琉球国王の尚忠(しょうちゅう)王の命により居城を中城城に移しました。これは、徐々に力を付けてきた勝連城主の阿麻和利をけん制するため、護佐丸は中城城の整備や兵馬の鍛錬などを行って抑止力とする狙いがありました。
ところが、阿麻和利は「護佐丸に謀反の動きがある」と王である尚泰久に吹き込み、これを信じ込ませてしまいます。こうして王府軍は総大将に阿麻和利を据えた中城城へと進軍させることとなりました。
1458年9月、中秋の宴が行われていた中城城を、突如として王府の旗を掲げた阿麻和利の軍勢が取り囲みます。突然のことに驚く家臣たちは護佐丸に応戦を提案しました。しかし、6代に渡って王府を支えてきた忠君の護佐丸は「王に背くようなことはできない」と応戦することを拒み、妻子とともに自害する道を選びます。
こうして護佐丸を討った阿麻和利でしたが、その後、王府である首里城にも刃を向け攻略を画策したとされています。阿麻和利の妻であり尚泰久の娘の百度踏揚は、勝連城を脱出して王府にこの謀反の計画を伝え、阿麻和利は王府軍によって滅ぼされてしまいました。
一般的には護佐丸は忠君、阿麻和利は裏切り者というイメージで語られることが多い琉球史ですが、阿麻和利もクレバーで良い城主だったという話も伝わっています。護佐丸・阿麻和利を巡るエピソードの裏には、力のある豪族だった両名が琉球王府を脅かす存在だったため、2人を討つために画策されたシナリオだったという説もあります。今となっては真実は闇の中ですが、歴史はあくまでも勝者の記録ですからね。
ペリー提督も評価した護佐丸の築城技術の高さ

1853年にペリー提督が来航した際、中城城跡を訪れて測量調査をしましたが、その城の美しさと建築技術水準の高さに驚嘆し、この城に関する詳細な報告文を書いています。
中城城の城壁には鉄砲を撃つことができる砲門が備えられていることが後年の修復・発掘調査などで判明しました。砲門以外に弾丸も発掘されているため、琉球には種子島に鉄砲が伝来するよりも早く鉄砲が存在していたというのですから驚きですよね!
護佐丸の足跡を辿る世界遺産の旅に出よう!

さて、護佐丸にスコープした世界遺産巡りはいかがだったでしょうか。単なる石積みや苔むした石垣だと思っていた遺跡たちも、それを作った人物がどのような思いで誰のために作ったのか、彼らの功績を知ってからでは違った景色が見えてくるかもしれません。
次回、沖縄を訪れる時は、護佐丸という人物に思いを馳せながら歴史ロマンを辿る世界遺産巡りをしてみてくださいね!